マズローの欲求階層説は西欧の文化の中で研究されたものですが、東洋にもこれと似た考え方があります。古代中国は斉の国王桓公の宰相であった管仲の言行録「管子」の中に『衣食足りて礼節を知る』という言葉があります。衣服や食物という生活上の基本となるものが満たされて初めて、人との交わりの中で欠かせない礼儀や節度を意識するようになるという意味です。
欲求階層説でいうなら、衣や食は生理的欲求、安全欲求に相当するものであり、礼や節は愛情・所属欲求や自律欲求に関わるものと考えることができます。下層の欲求が充足された後にさらに上位の欲求が意識されるようになるという点では、洋の東西を問わず同様の見方が存在しているといえ、大変興味深いものがあります。
ところで、欲求階層説を実証するには欲求を階層ごとに測定する必要が出てきます。実はこれが大変難しいのです。マズローの欲求階層説を説明するときには、通例では欲求のピラミッドとよばれる三角形の図が用いられます。図ではそれぞれの階層が線で区切られており、明確な階層性が示されています。しかし、現実にはそれぞれの階層は図に示されるようなはっきりとした区分けがあるわけではなく、虹の七色のように濃淡が緩やかに変化し隣の階層に移っていくと考える方が自然です。
たとえば、自律欲求と自己実現欲求とはどのレベルで明確に区別できるでしょうか。周囲から一目置かれ好かれる存在になりたいというのは、自律欲求でしょうか、それとも愛情・所属欲求でしょうか。このように、欲求を階層別に測定しようとする場合、階層が重なり合う部分の欲求を区別することが難しく、質問項目を作るにも適切で信頼できるものが用意できません。
欲求階層性の概念はイメージとしては大変わかりやすいものですが、実際の測定が難しいことから、マズローの説は検証不能な説(non-testable theory)といわれることもあります。だからといって、検証が全くなされていないということではなく、多くの研究者がさまざまな方法を工夫しながらその検証を試みています。ただ、これまでの研究を総合すると、欲求の5つの階層が独立して明確に見いだされた研究はまだなく、階層が見られてもマズローの区分とは必ずしも一致しないなど、実証的な検証は道半ばです。
しかし、欲求階層説には私たちが納得できる経験的な妥当性があります。少しでも高みを目ざし自己実現に至ろうとする姿を肯定するマズローの理論は、人々の納得感と共感を生み、企業・組織の人間観や従業員施策にも大きな影響を与えました。